旅行記 
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[No.4980] 麻布十番の赤い靴 投稿者:男爵  投稿日:2016/10/19(Wed) 18:16
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麻布十番の赤い靴
画像サイズ: 511×428 (57kB)
> 函館に
> 赤い靴の女の子の像があります。

いちおう
赤い靴の女の子のモデルは下記のようになっています。

 女の子の名は「岩崎きみ」。
 明治35年(1902)7月15日、日本平の麓、静岡県旧不二見村(現 静岡市清水区宮加三)で生まれました。

 きみちゃんは赤ちゃんのとき、いろいろな事情で母親「岩崎かよ」に連れられて北海道に渡ります。

 母親に再婚の話がもちあがり、かよは夫の鈴木志郎と開拓農場 (現北海道、留寿都村)に入植することになります。

 当時の開拓地の想像を絶する厳しさから、かよはやむなく三歳のきみちゃんをアメリカ人宣教師チャールス・ヒュエット夫妻の養女に出します。

母親は、娘が宣教師夫妻に伴われ渡米して,今頃は幸せになっているよと、(きみちゃんの)妹に話して聞かせました。

かよによれば、夫の鈴木志郎と野口雨情は札幌の新聞社に勤めていて、家族どうしの交際があったのです。
(すくなくとも、小樽では鈴木志郎と野口雨情と石川啄木は同じ新聞社に勤務していました)

アメリカに渡った娘の話を野口雨情に話をしたら、野口雨情があの「赤い靴」の歌を作ってくれたのだと母親は思っていたのでした。

しかし、きみちゃんは結核になって米国には行かず、一人でさみしく麻布十番で死んだのです。
墓は青山墓地にあります。

http://jin3.jp/kimi/kimi-1.html

という話に対して否定する人もいます。
「赤い靴」の作詞者野口雨情の息子野口存彌(のぐち のぶや)も否定的な考えです。

そもそも、歌はどのようにしてできたのか、いろいろなモチーフや作者の思いがあって
作者自身にしても、あれが主なモチーフだったとは断定できないかもしれません。

  「雪の降る町」もしかり。 鶴岡説、旭川説などあり。
   「夏の思い出」の作詞者は、尾瀬で見たミズバショウは、実は幼いとき育った岩手の八幡平ふもとのミズバショウを思い出しながら、作詞したのだと書いています。

ともかく
きみちゃんは麻布十番にあったキリスト教教会の孤児院で死んだのです。

あの「赤毛のアン」の翻訳者の村岡花子は、この近くの東洋英和女学校で学んでいたので
当時この施設に出入りしていたようです。

だから
きみちゃんとも面識があったようです。時代と場所はあっています。

    ◎     ◎
きみちゃんの義父鈴木志郎と野口雨情は、実は意外な接点があったのです。

 若き日の野口雨情は、「労働世界」、「社会主義」に明治35年から明治36年まで社会主義詩6編を発表しています。
 「社会主義」は「労働世界」を改題したもので、片山潜が名目上の発行・編集人でした。

 いっぽう、「平民農場」は日本社会党の関係者の深尾韶たちが真狩村に土地を購入しはじめた開拓村で、社会主義やキリスト教に関心のあった鈴木志郎も参加したのです。
 きみちゃんの母親岩崎かよは、一緒に暮らす戸籍上の父親がキリスト教の信者で、この父親の意志もあって「平民農場」の開拓に取り組んだのです。

  だから、野口雨情や鈴木志郎や岩崎かよが札幌で会ったとき、いろいろな共通点があり同志的な語らいがあったのではないかと推察されます。
  そして、当時としては危険思想だった社会主義については、なるべく彼ら自身は口外しなかったのでしょう。 だから、彼らの結びつきは秘密にしておきたかったかもしれません。

  岩崎かよが自分の娘(きみちゃんの妹)に、野口雨情がきみちゃんのことを歌につくってくれたと話しても、彼らが社会主義というテーマで結ばれていたことは話さなかったのでしょう。


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