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[No.4978] 函館赤い靴 投稿者:男爵  投稿日:2016/10/18(Tue) 08:06
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函館赤い靴
画像サイズ: 330×332 (23kB)
函館に
赤い靴の女の子の像があります。

ひさしぶりに見に行ったら
修学旅行の生徒たちが集まっていて
そこに遅れてきた先生が合流。

先生はなんだか言い訳を言っていたような。
 (あちこち用事があって忙しい先生)

記念写真を撮っていました。


[No.4979] Re: 函館赤い靴 投稿者:男爵  投稿日:2016/10/19(Wed) 03:12
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Re: 函館赤い靴
画像サイズ: 480×800 (77kB)
> ひさしぶりに見に行ったら
> 修学旅行の生徒たちが集まっていて
> そこに遅れてきた先生が合流。

> 記念写真を撮っていました。

昔の波止場の場所に
こんな像ができたのです。

数年前に見に行ったとき写した写真でした。

いま見直すと、左に小さな像が見えますが
あれは新島襄が函館からアメリカに向かって密航したときの記念像です。
http://www.hakobura.jp/db/db-view/2013/04/post-229.html


[No.4980] 麻布十番の赤い靴 投稿者:男爵  投稿日:2016/10/19(Wed) 18:16
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麻布十番の赤い靴
画像サイズ: 511×428 (57kB)
> 函館に
> 赤い靴の女の子の像があります。

いちおう
赤い靴の女の子のモデルは下記のようになっています。

 女の子の名は「岩崎きみ」。
 明治35年(1902)7月15日、日本平の麓、静岡県旧不二見村(現 静岡市清水区宮加三)で生まれました。

 きみちゃんは赤ちゃんのとき、いろいろな事情で母親「岩崎かよ」に連れられて北海道に渡ります。

 母親に再婚の話がもちあがり、かよは夫の鈴木志郎と開拓農場 (現北海道、留寿都村)に入植することになります。

 当時の開拓地の想像を絶する厳しさから、かよはやむなく三歳のきみちゃんをアメリカ人宣教師チャールス・ヒュエット夫妻の養女に出します。

母親は、娘が宣教師夫妻に伴われ渡米して,今頃は幸せになっているよと、(きみちゃんの)妹に話して聞かせました。

かよによれば、夫の鈴木志郎と野口雨情は札幌の新聞社に勤めていて、家族どうしの交際があったのです。
(すくなくとも、小樽では鈴木志郎と野口雨情と石川啄木は同じ新聞社に勤務していました)

アメリカに渡った娘の話を野口雨情に話をしたら、野口雨情があの「赤い靴」の歌を作ってくれたのだと母親は思っていたのでした。

しかし、きみちゃんは結核になって米国には行かず、一人でさみしく麻布十番で死んだのです。
墓は青山墓地にあります。

http://jin3.jp/kimi/kimi-1.html

という話に対して否定する人もいます。
「赤い靴」の作詞者野口雨情の息子野口存彌(のぐち のぶや)も否定的な考えです。

そもそも、歌はどのようにしてできたのか、いろいろなモチーフや作者の思いがあって
作者自身にしても、あれが主なモチーフだったとは断定できないかもしれません。

  「雪の降る町」もしかり。 鶴岡説、旭川説などあり。
   「夏の思い出」の作詞者は、尾瀬で見たミズバショウは、実は幼いとき育った岩手の八幡平ふもとのミズバショウを思い出しながら、作詞したのだと書いています。

ともかく
きみちゃんは麻布十番にあったキリスト教教会の孤児院で死んだのです。

あの「赤毛のアン」の翻訳者の村岡花子は、この近くの東洋英和女学校で学んでいたので
当時この施設に出入りしていたようです。

だから
きみちゃんとも面識があったようです。時代と場所はあっています。

    ◎     ◎
きみちゃんの義父鈴木志郎と野口雨情は、実は意外な接点があったのです。

 若き日の野口雨情は、「労働世界」、「社会主義」に明治35年から明治36年まで社会主義詩6編を発表しています。
 「社会主義」は「労働世界」を改題したもので、片山潜が名目上の発行・編集人でした。

 いっぽう、「平民農場」は日本社会党の関係者の深尾韶たちが真狩村に土地を購入しはじめた開拓村で、社会主義やキリスト教に関心のあった鈴木志郎も参加したのです。
 きみちゃんの母親岩崎かよは、一緒に暮らす戸籍上の父親がキリスト教の信者で、この父親の意志もあって「平民農場」の開拓に取り組んだのです。

  だから、野口雨情や鈴木志郎や岩崎かよが札幌で会ったとき、いろいろな共通点があり同志的な語らいがあったのではないかと推察されます。
  そして、当時としては危険思想だった社会主義については、なるべく彼ら自身は口外しなかったのでしょう。 だから、彼らの結びつきは秘密にしておきたかったかもしれません。

  岩崎かよが自分の娘(きみちゃんの妹)に、野口雨情がきみちゃんのことを歌につくってくれたと話しても、彼らが社会主義というテーマで結ばれていたことは話さなかったのでしょう。


[No.5011] 横浜駅の赤い靴 投稿者:男爵  投稿日:2016/10/29(Sat) 16:22
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横浜駅の赤い靴
画像サイズ: 496×530 (41kB)
> > 函館に
> > 赤い靴の女の子の像があります。

横浜の山下公園には比較的早い時期に
赤い靴の像ができました。 1979年(昭和54年)

なんだか聞いた話では
横浜のことが歌われている歌のアンケートをとったら
野口雨情の「赤い靴」が一番たくさん票が集まったので
赤い靴の女の子の像を作ることにしたのだそうです。

横浜駅に小さい赤い靴の女の子の像があると聞いて探したのですが
そのときは見つかりませんでした。

それからずっと後で、偶然発見しました。

こんなに小さいとは知らなかったから。


[No.5510] Re: 横浜駅の赤い靴 投稿者:男爵  投稿日:2017/06/02(Fri) 19:38
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Re: 横浜駅の赤い靴
画像サイズ: 443×550 (42kB)
> 横浜駅に小さい赤い靴の女の子の像があると聞いて探したのですが
> そのときは見つかりませんでした。

> こんなに小さいとは知らなかったから。

もう1枚のせておきます。

ここは待ち合わせ場所になっているようです。


[No.5220] 札幌の赤い靴 投稿者:男爵  投稿日:2017/02/10(Fri) 14:37
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札幌の赤い靴
画像サイズ: 550×541 (68kB)
札幌の山鼻公園に
赤い靴の歌碑ができました。

>  母親に再婚の話がもちあがり、かよは夫の鈴木志郎と開拓農場 (現北海道、留寿都村)に入植することになります。
>
>  当時の開拓地の想像を絶する厳しさから、かよはやむなく三歳のきみちゃんをアメリカ人宣教師チャールス・ヒュエット夫妻の養女に出します。
>
> 母親は、娘が宣教師夫妻に伴われ渡米して,今頃は幸せになっているよと、(きみちゃんの)妹に話して聞かせました。
>
> かよによれば、夫の鈴木志郎と野口雨情は札幌の新聞社に勤めていて、家族どうしの交際があったのです。
> (すくなくとも、小樽では鈴木志郎と野口雨情と石川啄木は同じ新聞社に勤務していました)
>
> アメリカに渡った娘の話を野口雨情に話をしたら、野口雨情があの「赤い靴」の歌を作ってくれたのだと母親は思っていたのでした。

(赤い靴のモデルのきみちゃんの母親)岩崎かよから
話を聞いた野口雨情が「赤い靴」の歌を作ったという説にもとづいて
この山鼻公園の歌碑ができたようです。


>     ◎     ◎
> きみちゃんの義父鈴木志郎と野口雨情は、実は意外な接点があったのです。
>  若き日の野口雨情は、「労働世界」、「社会主義」に明治35年から明治36年まで社会主義詩6編を発表しています。
>  「社会主義」は「労働世界」を改題したもので、片山潜が名目上の発行・編集人でした。

>  いっぽう、「平民農場」は日本社会党の関係者の深尾韶たちが真狩村に土地を購入しはじめた開拓村で、社会主義やキリスト教に関心のあった鈴木志郎も参加したのです。
>  きみちゃんの母親岩崎かよは、一緒に暮らす戸籍上の父親がキリスト教の信者で、この父親の意志もあって「平民農場」の開拓に取り組んだのです。

>   だから、野口雨情や鈴木志郎や岩崎かよが札幌で会ったとき、いろいろな共通点があり同志的な語らいがあったのではないかと推察されます。
>   そして、当時としては危険思想だった社会主義については、なるべく彼ら自身は口外しなかったのでしょう。 だから、彼らの結びつきは秘密にしておきたかったかもしれません。


[No.5368] Re: 麻布十番の赤い靴 投稿者:男爵  投稿日:2017/03/30(Thu) 18:54
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>  女の子の名は「岩崎きみ」。
>  明治35年(1902)7月15日、日本平の麓、静岡県旧不二見村(現 静岡市清水区宮加三)で生まれました。
>
>  きみちゃんは赤ちゃんのとき、いろいろな事情で母親「岩崎かよ」に連れられて北海道に渡ります。
>
>  母親に再婚の話がもちあがり、かよは夫の鈴木志郎と開拓農場 (現北海道、留寿都村)に入植することになります。
>
>  当時の開拓地の想像を絶する厳しさから、かよはやむなく三歳のきみちゃんをアメリカ人宣教師チャールス・ヒュエット夫妻の養女に出します。
>
> 母親は、娘が宣教師夫妻に伴われ渡米して,今頃は幸せになっているよと、(きみちゃんの)妹に話して聞かせました。

> しかし、きみちゃんは結核になって米国には行かず、一人でさみしく麻布十番で死んだのです。
> 墓は青山墓地にあります。
>
> http://jin3.jp/kimi/kimi-1.html

きみちゃんが一人寂しく幸薄い9歳の生涯を閉じたのは、明治44年(1911)9月15日でした。 

> あの「赤毛のアン」の翻訳者の村岡花子は、この近くの東洋英和女学校で学んでいたので
> 当時この施設に出入りしていたようです。

村岡花子は、明治26(1893)年6月21日 甲府市に生まれ
 2歳のとき、甲府教会の小林光泰牧師より洗礼を受ける。
 5歳のとき両親とともに上京。 カナダ・メソジスト派系の麻布教会(鳥居坂教会)に通う。

 10歳のとき麻布鳥居坂の東洋英和女学校に給費生として編入。
  給費生はカナダ・メソジスト派が運営する孤児院(永坂孤女院)での奉仕活動も課せられた。
 大正2(1913)年 20歳で東洋英和女学校を卒業する。

     村岡恵理:花子とアンへの道

> だから
> きみちゃんとも面識があったようです。時代と場所はあっています。